歌手として有名になっていくにつれて配給会社数社から出演の依頼が彼のもとに届いた。エルヴィスは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がエルヴィスを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給『Rino Brothers』を選んだ。エルヴィスはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも『Love Me Tender』に変更されて公開された。エルヴィスは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。
陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたがいずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、『G.I. Blues』、『Blue Hawaii』、『Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)』等、話題になったものもある。結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、エルヴィスが望んだ歌なしの映画は1969年公開の『Charro(殺し屋の烙印)』のみであった。
エルヴィスは脚本を叩きつけ、「ふざけるな!ボートにバイクに車の選手、全部同じストーリーだ」と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。
この映画が製作された頃のエルヴィスは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、エルヴィスの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ、また、エルヴィスが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、エルヴィスの仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
映画に出ていた時もあったのですね。これには少しびっくりしました。
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